早稲田時代  
1958−1962  

                                                                           
 1958年兄貴が早稲田を出ると入れ替わるよう
 に私が入学上京。大学の紹介で池袋西武線の
 練馬区中村橋に住んだ。東京銀行のバンカーの
 屋敷の離れ、3部屋あり早稲田と東大の学生が
 いた。 大学では映画研究会に入っていた。
 1958年露文科新入生30余人。すでに安保闘争は始まっていた。
  しかし珍しく明治神宮ハイキングなどと言う行事もあった。これが最
  初で最後のクラス行事だったか。この後はデモへの参加,国会前で
  の座り込みが続いた。前列右2人目広田さんは後年岩佐恵美・共産
  党代議士として活躍する。男性は朝日、毎日、神奈川、神戸等新聞
  社に行ったのが多い。





1958年早大1年初の早稲田祭。当時所属の映画研究会。この年招待したのは杉江敏夫監督に
女優の司葉子さん。前列右端はフジテレビ政治部記者からある日都議会議員に転進した2年生の
増田卓二さん。今は政治評論家。 彼の右後端に暗く写っているのは1年生の 吉村英夫君。「男はつ
らいよ」の世界など山田洋次論ほか映画評論作多数。後列左端は中さん、のちの岡本喜八監督
夫人。1年しかいなかったので他の人々の消息を知らない。2年生の浅井慎平氏は地元名古屋に
早稲田のオーケストラ、学生バンドなどを呼んで興行を打っていた。ここでは写っていない。


                                   
                                     
1960年5月早大3年生の折、1人でフラッと
箱根に旅に出た。大平の茶店にて。
1960年3年生になる春休み。名古屋税関にいた姉
を訪ねて名古屋城にのぼる。



                                                                                       
1961年の正月。愛知県に帰郷の折に中学生の弟と
結婚当時の
姉の新居を訪ねる。
1961年2月 江ノ島に出かける。小林君と。
この時の撮影は高張君。
    1961年6月 早稲田の大隈庭園にて。左から高張、野村佐々木。 1961年7月 佐々木君と何故か無銭旅行に出かける。1等車
に乗っていて函南駅で降ろされる。修善寺の山中で夜を明か
す。朝には川に下りハンゴで自炊。ここは清水市日本平の山頂。
                1961年秋の早慶2回戦。 この時は2対1で慶応に勝つ。





1961年 秋のキャンパス。ソビエト見本市で来日のお客を迎えて
黒田辰夫教授と露文科4年生。






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962年 卒業間じかのキャンパス。
早稲田講堂の前。

                                                                         
1962年露文科卒業論文「ベルジャーエフの人間学」口
頭試問
当日、 米川正夫指導教授による。
 1962年2月既に或る新聞社で働いていた。卒業式
 の前日
上京した姉夫婦とともに鎌倉に出かけた。


                     
                      
1962年2月 無事卒論の口頭試問を終えて皆ホッとした。 右から2人目は中村新珠君、
                平凡社に入り後年編集者から独立して評論家・海野弘となる。その右は 高野雅之君。大
                 学院に進み露文の教授に。
専門はロシア思想史。


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