イスタンブール (3) |
地下宮殿 −> ボスポラス海峡クルーズ |
6月10日(土曜日)トルコ最後の観光。オプション で市内の地下宮殿とボスポラス海峡のクルーズ とランチの半日コース。約1万円。 出来れば一人で市内を歩いて写真を撮りたいと 言う気持ちもあった。しかし日本を出る時には外 務省の危険情報ではイスタンブール市内では4 月にはクルド人独立派の爆破事件も発生。リス クは避けられない。 それに市内の何処へ行くか事前調査が出来てい ない。安易なオプションに乗った。 |
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写真上: 車からの市内風景。今朝は8時半にオプシ ョン参加の4人で出発。1週間走り回っているベンツの Sprinterに乗る。 写真右: 地下宮殿の入場券。暗くて思うように写真 が撮れずチケットの写真で代用。立派な円柱や天井 の様子はまさに宮殿の名が相応しい。 |
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写真左:柱の礎石として使われたメドゥーサの首。 ギリシャ・ローマ時代の神殿の石材が使われたと言う。 地下は薄暗くてよく見えない。ビザンチン帝国時代の 6世紀にユスチアヌス帝によって作られた地下貯水池。 市内には4世紀に作られた2階建てのバレンス水道 橋があるがそこを流れてきた水がこの地下宮殿に貯え られた。 水の中をよく見ると大小の鯉が泳いでいる。ほとんど 光の無い世界の住人達。ガイドの説明によれば帝国 時代敵に毒を入れられた場合魚が死んで浮くのでそ の危険を知らされたと言う。 |
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10時金角湾のエミノニュからボスポラス海峡の クルーズに出航。アルマラ海から黒海に向けて 北上する。我々は黒海までは出ずに1時間ほど で途中下船している。 30分以上も前に乗船して船室ではなく甲板のベン チに席をとった。今日は土曜日出航時間にはさす が込んできた。 |
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イスタンブール市内のヨーロッパ側の旧市街と新 市街を結ぶガラタ橋を見てスタート。北上するクル ーズ左岸はヨーロッパ側。右岸がアジア側になる。 最初に見える橋が第1ボスポラス大橋。我々は第2 ボスポラス大橋を過ぎて二つ目の寄港地で下船。 |
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乗船している客の人種はまさに様々で ある。その様子を見ているだけでも興味は 尽きない。やはりヨーロッパから来ているツー リストがほとんど。アジア系の人は少ない。 海峡の両サイドに展開する風景もアジア人の 私からすれば完全にヨーロッパの風景である。 |
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写真上: ルメリ・ヒサルと言われるヨーロッパの砦。 15世紀征服者スルタン・メフメット2世がコンスタンチ ノープルの攻略のために築いた砦。黒海からマル マラ海へ抜けようとする船をこの砦から攻撃したと言 う。1453年のコンスタンチノーブル攻防戦では彼は12 万のオスマン・トルコ軍を率いてまさに現在の旧市街 に居を構える東ローマ(ビザンチン)帝国コンスタンチ ヌス11世の帝国軍(7千名)を攻める。 写真左: 第2ボスポラス大橋。1988年に日本企業の 協力によって完成した橋である。 |
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写真右: タラブヤで下船後ランチをとったレストラン。 2階の席からは眼下にボスポラス海峡が広がる。 食事の後は陸路新市街地のホテルへ向かう。 午後2時には自由行動組の2人をピックアップして アタチュルク空港へ向かう。フライトは夕刻5時半の 予定。 |
トルコ出国 |
慌しいトルコ滞在も終りがきた。車に乗り続けた1週間でもあった。楽しいツアー仲間と共に、
快晴に恵まれた旅。懸念されるトラブルもなくイスタンブール空港に辿り着いた。
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6月10日(土曜日)午後3時前にはイスタンブール空港に 到着。チェックイン手続きがガイドのセルハン氏の最後の 仕事になった。成田へのフライトは夕刻5時30分。 写真下: 出国手続きのPassport Control. テロの影響 でセキュリティ・コントロールはかなり厳しい。成田でのよう に靴まで脱がされる煩わしさを避けるために上着はもちろ ん、ポケットの中身の総て、バンドもはずした。出国手続き だけでなく最後のトルコ航空の搭乗の段になって再度セキ ュリティ・コントロールがあった。私にとってはこれは初めて のケース。 |
写真下左: 免税店。トルコワインの良いのを探したが ウイスキー類に比べてワインは国も種類もとても限ら れていた。 スプリンターのシートで手にしていた伊丹十三の文庫 本『ヨーロッパ退屈日記』に「偏見を得ようとするなら、 旅行するにしくはない」と言う言葉が出てくる。私のこ の旅行記も短いトルコの旅でたまたま目にした些細な ことがトルコ人を,或いはトルコ社会を印象づけているか も知れない。 |
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印象と言うより経験的にトルコでは観光,商売にとって 日本語が相当有力である。ガイドはもちろん皮製品、 絨毯、トルコ石の会社。観光地の屋台のような土産 店でさえ日本語を操る人々。近年10万人の日本人が トルコ観光に訪れると言う。商売の為に,生きる為に必 死に日本語を覚えるトルコ人。しかし路上でたまたま 耳にした「ケチ, ビンボー!」の売り子の声。 一方通貨はトルコ・リラの他、円、ユーロ、$の流通 性が高い。日本ではトルコ・リラはマイナーで売買でき ない。私は円の他は過去の旅の手持ちのユーロや$ を財布に入れていたが結構重宝した。 |
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今回のトルコ観光では中に入れなかったイスタンブール のアヤソフィア。それは東ローマ帝国のキリスト教会で あった。しかし15世紀かの地を攻略したオスマン・トルコ 軍はやがてこれをイスラム教のモスクに変えてしまう。 キリスト世界からみればビザンチン帝国は15世紀以降 はトルコ軍に征服された。かつては中央アジアの遊牧 民でアフガ二スタンやイランを経てイスラム化したトルコ 人が今日までこのトルコを支配している。いや今日のト ルコを築いて来たとも言える。 13世紀の元寇の役、鎌倉時代の蒙古襲来によって日 本列島はモンゴル人によって支配されたと仮定したら。 トルコの地,アナトリア半島ではそれが歴史上の現実と して存在していると言えば極論であろうか。 |