London  1985  

     
5年ぶりのロンドンは珍しくアメリカか
ら来ることになった。サンフランシスコ
で米国の公的機関BIOSIS(生物科
学情報サービス)と日本のエージェン
ト4社との合同会議を終えた足で。

せめてニューヨークからならまだ近い
が、サンフランシスコからは夜のフラ
イトで9時間以上はかかった。

しかし午前のヒースロー空港にはロン
ドン・オフィス2代目の金子支配人夫
妻が自家用車で迎えてくれ多いに助
かった。彼が手配してくれていたケン
ジントン・ガーデンとハイド・パークの
向かいのホテルに入る。

      (Hyde Park from my room 1985)
                              
          Hyde Park                      

               Outside of Hyde Park              

  


1週間を切る滞在日数でロンドン市内の取引先だけでなく、オックスフォード、ケンブリッジそしてステイヴナッジと地方にも出かけた。 もちろん観光の閑はない。とりわけ日本でのエージェント契約更新がかかっていた生化学会とはハードな交渉になった。先方は法務担当も同席して厳しい条件の詰めになった。


   (At Suntry in London 1985)                              
 
  一方オックスフォード大学出版局から帰った夕刻は
  パデイントン駅からタクシーを飛ばしてサントリー
  に向かった。テイラー&フランシス社の社長と重役
  は既に到着していた。
  サントリー直営のこのレストランは私は初めてであ
  ったがしゃぶしゃぶは英国人の彼らにも好評だっ
  た。決して廉くはないが。 
                            
  会社のオフィスには5年ぶりで、初代の筆保洋一
  郎支配人は昨年ニューヨークに転勤していた。パ
  トリシアは6年になるがまだ元気に働いていた。
  彼女はフランス系英国人でご主人はフィナンシャ
  ル・タイムスの記者ということだった。
 

     

        (Mr.Takahiko Kaneko)


私が訪ねたオフィスでは金子貴彦支配人(現日本シノップス・出版代表)とはフランス語で話していた。私が英語で彼女に
「君達はどうして英語で話さないのだ?」
「彼は英語が下手でフランス語の方がまだましだわ!」
と返ってきた。
半分冗談にしても彼は上智時代に1年間パリ大学で演劇学の勉強をしていたので或いは事実かもしれない。

( Maki & Patricia At the Office of Kinokuniya in London 1985)


                                        
日本への帰国便はアラスカ州
アンカレッジ空港経由。当時の
ヨーロッパ北周りコース。




                         
1985年5月29日 成田発ー>サンフランシスコ
6月1日 サンフランシスコー>ロンドン
6月6日 ロンドンー>成田 6月7日無事帰国。



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