ダブリンを訪ねる (3) 


        ジョイスの代表作『ユリシーズ』は主人公ブルームのダブリンでの1日の生活を
        意識の流れで描いている。その年は1904年であった。それから丁度100年の
        時間が流れた。同じくダブリン生まれのノーベル賞作家サミュエル・ベケットは
        20歳でパリに渡った。彼に影響を与えたジョイス自身22歳でダブリンを脱出し
        た。トリエステ、チューリッヒそしてパリに暮らし、ほとんどダブリンに戻ることは
        なかった。しかし彼の脳裏にはいつもダブリン市がダブリン市民がありリフィー
        川が流れていた。               

  G.  James Joyce  


   

       
   

グレシャム・ホテルを出て左手すぐコノリー駅への
アール通り。そこにさり気無く立つジェームズ・ジョ
イス。この前を何度通ったことか。夜も昼も。その
度にシャッターを切っていた。

足を交差して杖をついて立っている。チョッと顎を突
き出してはにかんでいる。こんな街中に立たされて
と苦笑している。でもいいか私の立つ狭い台座にい
つもダブリン市民が腰掛けて休んでくれる。

このジョイス像は1990年のブルームズ・デイにこの
場所での除幕式で披露されたものとその台座に記
してあった。
  


     

H.  River Liffey   


    

リフィー川はダブリンの象徴である。
ダブリンを東西に流れて街を北と南に
分けている。観光客が訪ねるトリニテイ
・カレッジ、ダブりン城、セント・スティー
ブンス・グリーン、テンプル・バーもみな
リフィー川の南側にある。



    

  I.  Dubliners   

アイルランドの人口は19世紀半ばで800万人を越していた。2004年の現在は
390万人台。英国領北アイルランドに残る160万人を入れて全島で550万人で
ある。この150年間に何が起きていたのか?1800年には英国がアイルランドを併
合している。その数十年後にアイルランドを襲った主食ジャガイモの凶作。未曾
有の大飢饉に100万人を越す Irish が餓死したと言われる。

当時の英国政府から適切な施策を得られなかった彼等はその救いをアメリカ大
陸に求めた。その数100万人を越すと言われる。現在アメリカ人の14%に当る
4000万人がアイルランド系移民と言われる。ジョン・F・ケネディ元大統領を生ん
だケネディ一族は有名である。


   
オコンネル通りを乳母車を押して歩く女性と黒人。
そう言えばダブリンでは黒人をあまり見ない。
アイルランドかつて貧しく、失業率も二桁で国を
去る人はいても外国から移り住む国ではなかった。
賑やかグラフトン通り。ウイークディにも拘わらず地元
の人も観光客も
街にやって来る。
 セント・スティーブンス・グリーンの午後、颯爽と公園
 を歩く女性。
夜のテンプル・バーの店先の男。シャッターを切って
貰ったのでついでに彼も撮ってみた。
グラフトン通リを一筋脇に入った道。店のガラス戸の横
でバッグを置いて眠る老人。道行く人も気づかずに。
オコンネル通りを南に下る男。
 オコンネル橋にさしかかる所、ピアスをした大きなおな
 かを出してソフトクリームを頬張る彼女。
テンプル・バー地区のMISOのおばさん。Irishではな
い何人であろうか?
セントスティーブンス・グリーンの前で一休みのライダ
ー達。
オコンネル通リを語り合いながら歩く若者達。

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