ヴェルサイユを訪ねる
   1994年9月

フランスの2日目ツアーバスは朝からパリ郊外の西へ向かった。私達は広いバスの最後部の丸いテーブルを囲んで座っていた。 1時間もかからずバスはヴェルサイユに着いていた。入場料はツアーで込みであるが貰ったチケットでは40フラン,およそ800円である。

裏口から広い庭園に入った。フランス式庭園の典型で見事な幾何学的な設計である。まだ早い時間で観光客もそれほど多くはなかった。
                                


(Parc-du-Grand-Trianon 1994) 






 (Palais de Versailles 1994)

一旦宮殿に入ると廻廊から部屋、その壁や天井を飾る大きな絵画,彫刻,壁画そしてシャンデリアと総てが豪華絢爛。 さすが太陽王と言われたルイ14世が17世紀後半の20年余をかけて作り上げたパレスである。

私も同行した安野一家の皆さんとその華麗な装飾に目を見張り、溜め息をつきながら見て回った。その頃には宮殿の中は観光客で込み出していた。 ガイドの声もフランス語,イタリア語,英語,日本語、中国語が耳に入ってくる。



ガイドがこの宮殿のなかでも最も人気のあると言うのが鏡の間。二階の中央に位置して10メートルの間口を入るとその部屋と言うか廻廊は延々75メートルと続く。 何百とはめ込まれた大小の鏡は外からの光を受けて反射し一層煌びやかにしている。実に巧みな計算された設計だと思う。

             

フォンテンブローを訪ねる
    1994年
      
     














(Chateau de Fontainebleau 1994)
パリでの一日日フリーデーを何処へ行こうかと思案し,前日ホテルのフロントで相談した。 はじめフランス語で話していると勘違いするほどの英語を話す彼女とあれこれ交渉。

結局パリ郊外のフォンテンブロー城のオプシヨナル・ツアーに決めた。1人350フラン、およそ7000円で手を打った。 午後1時20分ホテルにピックアップの予定。


 パリからおよそ65キロと言うフォンテンブローへはミニバスで1時間半以上走った。はじめ我々4人だけだったが市内で1組のペアを乗せた。 彼らは今日日本へ帰るフライトがストで帰国が1日延びた結果のフォンテンブロー行きだと言う。


フォンテンブロー城は広大な森の中のお城で、この日は9月下旬と言うのに汗ばむほどのきつい日差し。

12世紀から15世紀にかけて何代もの王様が作り上げてきた城であるが主にフランソワ1世によると言われる。しかしとりわけナポレ オンゆかりの城でこの日も特にナポレオン展を開催中。生前彼が愛用した軍服から幼少時代の肖像画までさまざまな遺品も展示されていた。 宮殿内部は前日訪ねたヴェルサイユ宮殿とは違って装飾も渋く、かなり落ち着いた雰囲気があった。写真のフォンテンブローのニンフはむしろあでやかであった。


バルビゾンを訪
   1994年

フォンテンブローから西へ10キロ程の隣村バルビゾンへ向かう。ひと気のない田舎道を走る。19世紀の30年代、 コローがこの鄙びた村にやってきたのが始めと言われ、40年代になるとミレー,ルソー,アングルなどが住み着く。後にバルビゾン派と言われた人々である。

日本人でも知っているミレーの『落穂拾い』や『晩鐘』がこのバルビゾンの景色の中から生まれている。 私達が訪ねた時は強い日がさしている日中であったが、朝夕の時間が特に雰囲気があると言う


(Maison de Millet 1994)



                            

       
                                    
蔦に覆われたミレーの記念館は小さな家で画室にはミレーの絵が所狭しと置かれていた。 数人がはいればもう通路もなくなるほどの部屋。時間が限られていたので多くの画家達が愛したバルビゾンの村を散策する機会は残念ながらなかった。






バルビゾンから又ミニバスでパリに向かった。一面田畑が続くパリ郊外を走る。車窓から高い青空と緑を見ているとフランスのもう一つの顔に気付く。 それはフランスは偉大な農業国だという事実である。

そして次の日はロンドン経由日本へ向かう。私は成田からすぐ自宅だが、安野さん達は一旦東京駅に出て未だ新幹線で名古屋まで帰らなくてはならない。
実は英国航空で成田に着いた時私達の荷物は乗っていなかった。スーツケースは翌日のフライトで成田へ運ばれ、航空会社の詫び状と一緒に荷物は自宅に届けらた。


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