早稲田時代 1958                    
 調布時代 1962
京都・松ヶ崎時代1963
京都・観月橋時代1968
 神戸時代 1969
 立川時代 1975 
 浦安時代 1. 1979



    刈谷時代  
      ー 1957





                                       刈谷市は愛知県の三河地方西端、尾張に接
 して位置する。江戸時代は水野氏の三万石の
 居城。水野忠正の娘於大の方(おだいのかた)
 は岡崎城主松平弘忠に嫁ぎ長男竹千代をもう
 ける。言うまでもなく後の徳川家康である。文
 京区小石川の伝通院は彼女の菩提寺として息
 子家康の庇護を受けた。

 そんな刈谷藩の城下町も明治維新以降は自
 動織機を発明した豊田佐吉が豊田自動織機
 の工場を設置。現在のトヨタの礎ができた。日
 本の自動車工業を支えるデンソー、アイシン精
 機、トヨタ車体、トヨタ紡織、愛知製鋼などの本
 社と工場が並ぶ。
                                       

 日本の軍国時代に生を受け幼年期には軍服を着て内
 庭で写真を撮っている。刈谷城址に近い元中根町に
 10代の終り近く迄暮らしていた。城下の亀城小学校
 から刈谷高校までいつも自宅から歩いて通学していた。
 

 10代で故郷を離れ東京、関西と長く働いてきた。そし
 て2年前には会社勤めもリタイヤー。収入はないが幸
 い時間はある。自分が生きてきた昭和と言う時代、敗
 戦後の日本は多くの困難に直面してきた。
 私も自分の生きてきた日々をアルバムの中に振り返
 ってみた。残された時間が限られると、かくもノスタル
 ジックになるのであろうか。私の歴史はビジネスマン
 の
極めて日常的生活の積み重ねにすぎない。
 
 自分のホームページに再現するには多くの先輩、知
 人、友人、親戚の方々のプライバシーにも関わる。
 既に故人となられた方もいる。万一配慮が不充分な
 点があった場合はご容赦願いたい。肖像権から免
 除される自分の写真が少し多くなった。
                     2007.9 YM
 


                

 
 愛知県地図――― 名古屋市の南に刈谷市

                                  



                                                                            
1952年中学2年生。弟の直之君と一緒に自宅門前。戦時中に鉄の扉は
武器用に国に供出され戦後は木製の門に変っていた。
 刈谷藩鎮守と伝えられた金毘羅堂。自宅庭内にて
 1964年撮影。

 
庭内の巨木。松の木とモチノキが際立つ。樹齢
数百年と言われていた。 1954年撮影。
9代目没落とともに伐採した。
 
 
1953年1月 中学3年生。離れの松陰荘(ショウインソウ)
玄関前。母屋とは長い陸橋でつながっていた。




1956年5月 高校3年 春のバス旅行犬山城へ。我々の在学中には全国高校サッカー選手権で準優勝。
国体サッカーでは2度の優勝。その主力選手の前列左・山中君は東京農大へ。後列左・吉岡君は明
治大でプレー。彼の右隣の広瀬襄君 は早稲田の国文へ行き松竹の映画監督に。

                                                  

                           
刈谷高3年体育祭。当時も受験校ではあったが今のように東大や京大へ2桁の
生徒は行かなかった。大半は地元名古屋大へ行った。私は私大文系クラスにい
たが東京か京都へ遊学するのが多かった。クラス仲間も会計士、歯科医、
僧侶、映画監督と結構多彩。

因みに写真右端の稲葉君も早稲田の法科に進んだが今はない地酒、
稲徳酒造のジュニア。やはり刈谷城下の広い屋敷に当時では珍しい
洋館。親父どうしも親しくよく遊びに行っている。
1955年 刈谷高時代。三河・刈谷市と
尾張・東浦町の間を流れる逢妻川。子
供の頃はいつもここで泳いでいた。


へ戻る           へ戻る